日時:2007年11月28日(木)13:00〜15:30
熊本地名研究会 藤吉 洸 氏、宮本 幸一 氏に各エリアを解説頂きながら散策した。
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○13:15〜13:45 北岡神社周辺
北岡神社入口 樹齢1000年の見事な夫婦楠

お手水所で本殿参拝前にお清め 2拝2拍一礼をし神様にご挨拶

境内は高台になっており眼下に白川、坪井川と駅前の道路が走る。目の前にはマンションが立ち並ぶ。

北岡神社は平安時代の肥後国司が府中鎮護のために京都祇園社(現八坂神社)にのれん分け(?)を
お願いし、熊本に伝わったのがはじまりである。
当初は飽田国府湯の原の地に勧請し(934年)、その後二本木に移動、
そして花岡山に移動(この移動で花岡山は「祇園山」ともよばれる)、
その後江戸時代細川藩のときに現在の位置におさまる。明治時代廃仏毀釈の際に北岡神社に改名された。
明治時代には、大阪の商人たちが多く寄進し、境内の石柱すべてに屋号と寄進者の名前が刻まれている。
北岡神社の下には、商人街(現在も町名が残る米屋町、魚屋町、鍛冶屋町など)が広がり、
坪井川を使った舟運が大変盛んであった。商品の卸先が大阪・京都であった関係が、
境内の石柱から関係の深さをうかがわせ、熊本の経済史の一片を垣間見ることが出来る。
春の折には、商人街の人々が主体となり坪井川に船を出し、
商売繁盛を祈願して祭が盛大に執り行われたそうである。それは華やかであったそうである。
その際能が披露され、北岡神社の境内下の、現在発掘調査が行われている場所に能舞台があったそうだが、
今は見る影もない。
関連サイト→ココ
北岡神社側からの清水寺。色づく銀杏が美しい。階段下は新幹線架橋にかかるため石垣を取る工事が行われている。
元来の状態で清水寺を臨むのは今年が最後となる。
清水寺も、京都から肥後に下向してきた国司たちが祇園山を京都の東山になぞらえて勧請して創建された。

北岡神社を新町のほうへ下ったすぐ近くに清原神社がある。清原元輔がご本尊で清少納言の父である。
肥後国司として986年に熊本に赴任し、990年永眠した。
関連サイト→ココ

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○14:00〜14:20 仏舎利塔周辺
眼下に広がる熊本市街地を臨む。眺望が大変素晴らしい。参加者も思い出話に花が咲く。

北岡神社から花岡山頂上を目指したが、
@道幅の狭さ
A途中小規模な道路工事に巻き込まれるトラブルあり、
Bモーテルが立ち並ぶ界隈があったり、
Cバス高があったため、整備されていない枝が車にひっかかる、
D電線が低い位置に通っており、バスの背に当たり大変危険であったりと、
とにかく、花岡山にバスで登るのは大変である。
花岡山には仏舎利塔、熊本バンド血盟の地、清正ゆかりの石、八枚岩等々
色々とあるのだが、

熊本バンド血盟の地で、地名研究会の藤吉氏の解説を伺うも・・・・
足元の焚き火場のようなところに、
打ち捨てられたみかんの皮、コーヒーの空き缶!!
これでは、折角の彼らの志も形無しである。
しかし悲しいかな、これが花岡山の現状であるのだった。。。
気を取り直して以下熊本バンドのご紹介です。
熊本バンドとは・・・(wikiより抜粋)
札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つである。
主なメンバーに金森通倫、横井時雄(横井楠南の長男)、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰らがいる。
招かれたアメリカ人教師L.L.ジェーンズの信仰と情熱が青年達を動かし、多数の入信者を産んだ。
ジェーンズの教育方針は、道義的国家の確立のために、神の信仰に生きる自主的な個人を形成することにあった。
こうした教育観が、士族の子として生まれながら、藩制の解体で忠誠の対象を失った青年達に、新しい目標を与えた。
1876年、洋学校の生徒35名は熊本城外花岡山で集会をして、「奉教趣意書」に誓約した。
こうした契約によって結ばれた人々をバンドと称した。
この趣意書は「遂にこの教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す。」とあるように、
個人的な誓約や教会形成を意識したものというよりは、キリスト教を国家との関係を意識したものであった。
また、熊本洋学校は、日本で最初に開かれた男女共学の学校であった。
生徒の中には、徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)や横井みや子(小楠の娘)などがいた。
男尊女卑が激しいイメージのある熊本において女性が活躍していたという歴史は、注目すべき点である。
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そのなかで関連してご紹介したいのが「肥後の猛婦」達である。
「肥後の猛婦」とは、社会評論家の大宅壮一が昭和34年「婦人公論」に連載した
「日本新おんな系図」の冒頭の章で「熊本の猛婦たち」と題し、
明治以後、女性の地位向上のため闘ってきた竹崎順子、矢島楫子姉妹や嘉悦孝子、
久布白落美など熊本出身の進歩的な女性たちを肥後の「猛婦」といったことに始まる。
大宅壮一氏が初めに肥後の猛婦としてとりあげた「矢島楫子(かじこ)」は、
「猛々しい」というように字面から想像するが、そうではなく「不屈の意志の持ち主」というほうが的を得ている。
彼女の活動の中で特筆すべきは、その功績の中でも、
1921年、89歳という年齢でアメリカに渡り、ワシントン平和会議に平和運動の署名を携え出席、
当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルに記念の花器を贈られその功を称えられたというエピソードは、
社会の表舞台で戦いながら行きぬく女性(ビジネスウーマン達)に大きな勇気を与えてくれる。
関連ページ→ココ
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と、まあ、熊本バンドに関して
このような歴史的背景を知っていれば、
ゴミなんか捨てられないと思うのは、事務局だけだろうか・・???
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○14:20〜14:45 官軍墓地周辺
大変残念な花岡山頂上を下りながら官軍墓地周辺へ移動。
神風連の乱の安岡県令の墓や、乃木希典息女の墓がある。

加賀マリアの墓の前でいわれを聴講する一行。

加賀山マリアとは・・
ディエゴ加賀山は、士として高山右近に仕え、右近追放後には細川忠興の家臣になり、その功績により、小倉の総家老にまで取り立てられた。キリスト者として行動するディエゴ加賀山は、家老職を解かれ、蟄居の身となり1619(元和5)年10月15日、将軍の圧力を恐れた細川忠興は、ディエゴ加賀山を小倉で斬首した。
ディエゴ加賀山の長女みや(加賀山マリア)は、細川家の親戚であった小笠原玄也と結婚し、信仰を守り続けた。玄也とみやは、処刑を免れたが、人里離れた貧しい家に子どもたちと共に監禁され、細川が肥後(熊本)に移封された際、同行を命じられた。賞金目当ての訴人によって捕らえられ、1636(寛永13)年1月30日、花岡山の麓にある禅定院で、子どもや従者と共に殉教した。
しかし、2007年日本の殉教者とともにローマ法王から福者の商号が送られた。
ここをさらに下ると、阿蘇家ゆかりの阿蘇殿松の跡、薩軍砲台跡がある。
阿蘇殿松の跡前で解説を聞く一行。残念ながら松はなく、全く関係ない桜が植えられていたが。。。

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○14:45〜15:00 北岡自然公園を通過
北岡自然公園は細川家の菩提寺妙解寺跡である。
園内にには、歴代藩主の墓が建てられている。森鴎外「阿部一族」の主人公の墓なんかもある。
北岡自然公園簡易レポート→ココ
関連サイト:北岡自然公園←クリックで情報ページに飛びます。
○15:00〜15:30 早川倉庫(万町)
早川倉庫は西南戦争が終り、商人街が焼け野原になった後すぐに建築された旧酒蔵である。
(明治11年/1878年と、明治13年/1880年))
熊本大地震や、第二次世界大戦の空襲から免れ現存している大変貴重な木造建築である。
当初所有者は酒蔵主人の岡崎唯雄氏。
熊本商業高校発足の父であり、熊本の経済界を力強く牽引した有力者でもあった。
最後は国会議員も務めた近代熊本におけるパワフルな経済人であった。
その後早川倉庫は岡崎家から早川家へと譲り渡され、もともと山鹿で履物業を営んでいた早川家が
支店を熊本市内で開店するにあたって、酒蔵をそれに利用した。
戦後は履物業から倉庫業に商売を換え、現在に至る。
早川倉庫を道路側から望む。倉庫は手前と奥で2列になっており、壁が漆喰作りで趣がある。
蔵は前後とも二階立てで、築130年とは思えない状態の良さを保っている。

蔵内部2階 手前に立派な梁が見える。戦前の木造一般建築でこれだけの規模のものは熊本では稀。

現在蔵は貸し倉庫と、2Fを趣味のスペースとして利用しているが、
ゆくゆくは蔵全体を喫茶や地域のステーションとして活用したいという希望を所有者はお持ちである。

このスペースをお借りして、元横井楠南記念館館長菊川輝範氏から
「肥後の猛婦:矢嶋 楫子」について卓話を頂く。

コーヒーとお菓子を頂きながらの聴講。外歩きの後で大変リラックスした様子であった。
快く蔵の見学とコーヒーブレイクの場所をご提供頂いた、早川倉庫社長早川礼三氏に感謝いたします。
早川倉庫
860-0032 熊本市万町2-4 TEL:096-352-0085
ディスカバリー熊本(花岡山編)を終えて☆☆☆
今回、短い時間の中ではあるが、花岡山周辺の観光資源を”発掘”しようという企画は
まさに色々な”ディスカバリー(発見)”があった。
それは、熊本の花岡山一帯にこのような歴史的文化遺産が多く存在すること、
また商業の街として発展した旧市街地と北岡神社の関係、さらに早川倉庫の存在と、
熊本の経済史を色々な側面から発見した旅でありました。
(文責:熊本経済同友会事務局) |